梅仕事2022総括

自分で食べ物を作るということは、自らの命を自分で養うことであり、それは本当の心の自立につながります。

赤ん坊が乳を与えられないと育つことができないように、人生の最初は誰もが、与えられない限りは生き延びることができません。そして「食べるものが与えられない」これは生死に関わる本能的恐怖として深いところに刻まれます。

一つ前の時代は、日常生活において自分の食べるものを自分で作ることが当たり前でした。ヒトはその仕事を通じ、自動的に精神的自立し、生きることへの自信を得ていました。そしてこれは、子どもが本当に意味での大人になるプロセスでもありました。

しかし、「作る」から「調達」の世界になった現在では、ヒトは日常生活の営みを通じての本当の自立の機会を失ってきています。すなわち自立を「意識的に」行わない限り、「潜在的に」依存なくして生きられない状態になってしまう危険性をはらんでいるのです。

多くの人間にとって食料が「与えられる」から「調達する」へとすり替えられた世界で起こることは、色々と想像できます。分配不均等や奪い合い、食糧危機もその一つでしょう。しかし、もっとも恐ろしいことは内面(心、魂、生きる意識)の無意識の依存状態です。依存した状態だと自分がわからなくなります。自分が何者なのか、何が好きなのか、何がしたいのか、いくら考えても探してもわからないのはそのためだと思います。

自分の食べるもの、それもできれば、作るのにある程度の時間がかかり、自分の都合だけではできないようなもの。米、味噌、塩、醤油、梅干し、漬物、など日本人としての「根幹」を成すものを自分の手で作り出すという作業は、自分の人生に目覚める作業とも言えます。しかし厄介なことに、このような作業は正解がないことが殆どです。やり方を他人から聞いたり、ネットなどで検索したりしても、情報の多さに迷うばかりのことが多く、最終的には自分で決めて、自分でやってみるしかないことが殆どです。そしてこれは、人間の内面の成長の過程と非常に似ているように感じます。

私は今年、梅仕事、とりわけ梅干しをつけることで、これらのことに気がつきました。私はこれまでの人生ずっと「何がしたいかわからない。何が好きかわからない」という感覚に苦しみ、もがき、散財してきましたが、このことに気がついてから自分の人生の肚(ハラ)が自動的に決まりました。

梅干し作る工程はとてもシンプルで基本は、洗う、漬ける、干すだけですが、正直、相当悩むこともありました。瓶に収める最後の最後まで上手く行ったか全くわかりませんでした。しかし、しばらく置いた梅干しを見て、ホッとしたのと同時に理由のない自信が湧いてきたのです。私は今、ようやく独り立ちの感覚を掴み、自分の人生のスタートに立った、そんな感じでした。

美味しいものを作ろうとか、安心なものを作ろうとか、始める動機などそんなことはどうでもいいのでした。自分で考え、決めて、自分の手でやるを一通り最後までやった果てに、「美味しくて嬉しくて安心」は自動的についてきました。もちろん失敗もありましたが失敗の捉え方がこれまでとは違いました。失敗ではなく「一つの経験」として自分の無形の財産になったような感じです。

そして梅干しのいいところは、寝かせることでドンドン変わってゆくことです。数ヶ月、一年、三年・・・。我が家には十年近い梅干しもありますが、それはそれでいいものです。梅を通して自分の過去を振り返り、現在へと統合してゆくこともできるのです。梅とともに時を重ねるのもまた純粋な喜びです。

私の頭の中には、もう既に来年の梅仕事への期待が膨らんでいます。ともかくもっと作りたい、その気持があるので、欲しい方を募って受注生産しようかなとか、どの梅を使おうとか、みんなと一緒に作る作業もいいかなと思ったり・・・・考えるのはとても楽しいです。そしてそれが思い通りにいかなくても(それがデフォルトでしょう)、結果的には最高最善になると委ねられるのです。

梅仕事の喜びが、一人でも多くの方に伝わりますように
そう願ってこの記事を締めくくりたいと思います。

最後に、

今年であってくれた梅たちに

感謝を込めて
ありがとう。

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