伊勢路4〜誰も行かない道をゆくのではなく、誰もいない道をゆくのであった

今日は待ちに待った瀧原宮を通る日だった。瀧原宮さまへは何度かお参りに行っているけど歩いて伺うのはもちろん初めてのこと。いつもと違うアプローチで向うお宮、近づくと空気が一気にひやっと変わったのを感じた。

山間の国道では道路工事をしているところが多い。交通整理員の方に挨拶をするもの一日の数少ない会話の一つ。そんな中、女性の交通整理員の方に「ご苦労様です」と挨拶をしたとき、彼女がとても丁寧に「道中、お気をつけて」と声をかけてくれた。その言葉を聞いたとき、肩からお尻にかけてまるでおんぶされるような何かにふわっと持ち上げられるような感覚が走った。ここにも女神がいた。

常日頃、わたしは「誰も行かない道を行きたい」と言っていた。その道は人生という道のことだけど、今は毎日毎日、紙の地図を頼りに実際の道をひたすら歩いている。人っ子一人いない道、でもこの道は「誰も行かない」道ではなく「(今は)誰もいない」道なのだといくことに気がつく。誰も行かない道を行くのも勇気がいるけれど、誰もいない道を行くのも同じくらい勇気がいるのだ。

勇気を出して誰もいない道を行けは、そこには確かに誰かがいた痕跡があり、次に通る見ず知らずの誰かのために先人が残してくれた何かを感じることができる。今、この瞬間に立ち上がる幾層もの時間と空間の連続の共有。それが巡礼路を歩くということなのだろう。

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